2015年6月3日水曜日

妊娠初期の記録11 結婚式を準備する1

2011年に入籍した私達夫婦。
震災婚ではなく、2011年の正月に今年は籍を入れよう、とお互い話し合って決めていました。

29歳になる年だったので、もうそろそろかなと。

春くらいに式場見学と親の顔合わせ、夏の私の誕生日に入籍(結婚記念日忘れられるとキツイので、…忘れても誕生日と被せてあれば気にならないかなと)、秋に挙式、新婚旅行。

そんな予定を考えて、正月には親に報告し、神社は明治神宮のパンフ貰って、セルリアンの試食会に行って、東急のウエディングサービス会員申し込んで…なんてのほほんと準備するしてましたね。

震災の日までは。


震災以降、夫のスケジュールはめちゃくちゃでした。

出版系の仕事のため、校了が信じられないくらい早まる早まる。
土日も返上で締め切りが繰り上がる。

聞いた話では、雑誌の紙が在庫払底。
作っていた唯一の気仙沼の工場が流され、昔の技術が残っている工場で代替生産に入るという、ギリギリの状況の印刷現場。

そして沼津にある印刷所は計画停電地域に入り、一度動かした輪転機は止められないため、さらなる繰り上げスケジュールでの入稿が必要に…(結局一度も計画停電はなかったものの、2011年の夏だけでなく、冬も計画停電は予定されていました)。

あの日までは木曜、金曜はだいたい休みで、連続休暇も三ヶ月くらい前以て予定日組めば作れたのですが。

2011年という年は、全く何も予定が組めずに、ただただ、電力不足でpcが使えなくなることに怯えて日々ギリギリのスケジュールを、プライベートなんて誰もがなげうって過ごしていました。

東北の方々の大変さに比べれば、家がある都民なんて大した問題ではなかったのだけれど、
皆、仕事がキャンセルになったり、普通に売っていた物は無くなり、小さな子供を抱える家庭の親は時に放射能の誤った情報に惑わされ、余震に怯え…気が狂ったような時間だったと思います。

10階のマンションだった夫の仕事場(現自宅)も壁紙がよじれ、ヒビ割れたり、倒れた家具で穴があいたりしました。
が、もっと高いマンションに住む人達は免震構造のため、家のなかがめちゃくちゃだったといいます。
天井と壁紙のあたりの継ぎ目がヨレたり、一度地震で揺れると船のようにずっと揺れ続けたり、エレベーターは停まり、ロビーで呆然とする人が沢山いて、2011年の4月は階段で登れる高さの部屋に引っ越し希望の高層マンション住民が沢山出ました…。

その辺は、結婚話と関係ないのですが、
なんで、結婚式しなかったの?と聞かれて、
「震災だったから、大変だったよね…」と
言っても、あまり大変さを思い出してくれる人がいないので…。
お祝いごとなんか、やれる雰囲気なかったじゃんね。
その年は大学の入学式とかもみんな「自粛」。
あまりに沢山の命が失われたばかりだったけど、一生に一度のお祝いであってもなんとなく大っぴらには祝えない空気がありました。
でも、結婚ラッシュのタイミングだったから、震災後の2011の春だけで2件は結婚式あったけどね…。


…とても色んなことをやれる雰囲気ではないなか、唯一予定通り叶ったのは入籍で、無事に自分の29歳の誕生日に婚姻届を出して、夫婦になりました。

そして、年が明けて2012年、夫の長期の仕事が終わった秋頃、長く入院生活が続いていた義理の父が亡くなりました。

翌年2013年秋、一周忌を終えた頃、義母に「あなた達もそろそろ、結婚式したらいいんじゃない?」と言ってもらい、すっかり諦めていた結婚式も、身内だけので良いから準備しようかな…
という気になりました。

長い長い前フリですみません。

2011〜2013は、夫は最悪に精神状態良くなかったです。
震災からの無理なスケジュールをこなして、信頼していた知人に酷い裏切りを受け、色んな泥をひっかぶり、大変な中、父を見送りました。

振り返ると、…もう二度とあの時期は過ごしたくないな、と思う、地獄のような時間でした。
でもその辛さがあるから、夫婦のつながりもあるのかな…と振り返って思います。

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